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織田信長と本能寺の変!京都・大阪府1泊2日でめぐる聖地巡礼歴史旅で、本能寺・信長公廟・本能寺跡・大阪城をたどる

2021年11月13日

こんにちは、もとみんです。

以前、織田信長にまつわる聖地巡礼プチ旅「愛知編」を2つの記事にまとめましたが、今回はその続編を書こうと思います。

信長の聖地は愛知・岐阜などもありますが、今回は信長最期の地となる京都にフォーカス!ということで、織田信長の聖地巡礼プチ旅「京都・大阪編」です。

「愛知編」に興味がある方はこちらも覗いてみてくださいませ♪

今回は、信長が命を落とした地であろう「本能寺」、そして新たな拠点にしようとしていたといわれる「大坂城」について書いていこうと思います。

 

※歴史的な軽い読み物となっております
※旅の思い出やアクセス情報も一緒に書いています

 

 

サクッと振り返る「本能寺の変」

まずは信長の死を決定づけたことになる「本能寺の変(ほんのうじのへん)」についてサクッとおさらいです。

泣く子も黙る「本能寺の変」は天正10年(1582)の早朝に起こったもので、京都・本能寺に滞在中だった織田信長を、家臣・明智光秀が襲撃した事件です。

2020年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれたとおり、光秀は信長がもっとも信頼していたといっても過言ではない家臣ですよね。

信長は謀反の相手が光秀だと知ったとき、「是非に及ばず」と漏らしたのだとか。この言葉の解釈はいろいろあるようですが、とにもかくにも「光秀ならば仕方ない」というのは、光秀の能力を認めていたからこそ出てきた言葉でしょう。

寝込みを襲われた信長は、本能寺が包囲されると火を放って自害したといわれています。このとき信長は49歳でした。なお、信長の嫡男・織田信忠も宿泊していた妙覚寺から駆け付けましたが、彼もまた火を放って自刃したそうです。

こうして信長が横死すると、それまで猛威を振るっていた織田政権は瓦解します。信長に謀反した光秀はその後の体制を整えるべく動きましたが、のちに羽柴(豊臣)秀吉との山崎の戦いで敗走し、坂本城に向かう途中に落ち武者狩りに遭って亡くなりました。

光秀はおおよそ13日程度天下をとったそうですが、すぐに失脚したことから「三日天下」ともいわれています。光秀が天下をとっていたらどんな世界だったんだろう!?

 

日本史上最大の謎とも呼ばれる?本能寺の変のミステリーとは

光秀の謀反により起こった本能寺の変ですが、いろいろな謎が残されていることから「日本史上最大の謎」なんて呼び名もあるようです。

一体どんな謎があるの!?ということで、本能寺の変にまつわる謎をいくつかピックアップしてみました。

 

(1)信長の死体は発見されていない

本能寺の変で信長は死んだとされていますが、じつは信長の遺体は発見されていません。ただし、信長に関してはこれといって有名な生存説をきかないので、おそらくここで人生をログアウトしたのだと思います。

とはいえ、「遺体が発見されていない=死が確定していない」ということなので、やっぱりミステリー心がくすぐられますね。どっかにタイムリープしてたらおもしろいのにな~!

 

(2)光秀が謀反した理由は定かではない

いちばん謎とされているのが光秀の謀反理由です。これにはさまざまな説があり、どれが真実かは未だに解明されていないようです。

ほんとうに大量の説があるのでまとめるのが大変なのですが、ざっくりいうと「野望説」「怨恨説」「四国説」「黒幕説」などがあります。

 

野望説

光秀も天下を狙っていたという説。『太田牛一雑記』にも記載があり、京都・愛宕神社で開催した連歌会で光秀が発句した「時は今 雨が下しる 五月哉」は、謀反の意が込められているともいわれているそうです。

黒幕説

じつは光秀の裏に黒幕がいたという説。これはバリエーションに富んでいて、のちに天下人となった秀吉や家康と共謀していたという説や、朝廷が光秀に信長暗殺を依頼したといった説などがあります。

怨恨説

エリート部下だったのにじつは信長から叩かれたり侮辱されたりとヒドい扱いを受けていたエピソードも満載な光秀。この怒りがつもり募って謀反を起したという説です。

また、光秀お気に入りの家臣・斎藤利三をめぐって、信長と言い争いになった的なエピソードもあり、これもこの怨念説の一つとなっています。

四国説

光秀は四国地方を治める長宗我部元親と深い関係にありました。本能寺の変が起こった日、信長の家臣・丹羽長秀らは四国征伐に出陣する予定でした。光秀はこの四国征伐を回避すべく本能寺の変をおこしたのではないかとも考えられています。

謀反といえば「主君を倒して俺が天下をとるぜ!」みたいなイメージがありますよね。しかし光秀に関しては、こういった「野望説」はあまり濃厚ではない模様。

光秀は信長から畿内の統治を任されていましたが、これは最重要ポイントを任されていたエリートポジションと考えられます。つまり光秀は織田株式会社における重役。

そんな将来安泰な彼が社長を陥れたのはなぜなのか…と考えると、野望説以外の説も信憑性がありそうな気がしてきますね!

 

(3)そもそもなぜ信長は本能寺に行ったのか?

本能寺の変がおこった当日、信長は供廻りを連れず、小姓衆のみを率いて本能寺に逗留していました。天下の信長さまがずいぶん軽装ではありませんか!

そんな軽装でなんでまた本能寺に行ったのか?というのがミステリーの一つで、これにも諸説あるようです。

信長は刀剣・茶器などのコレクターでもありましたが、前日に本能寺で開催した茶会で伝説の茶入れを手に入れたいと思っていたから、という説があります。

そのほかにも、天皇からの三職推任(太政大臣・関白・征夷大将軍のどれかへの就任)への返答をするため、本能寺が定宿だったから、本能寺との繋がりが深かったから、あるいは四国征伐の予定のため…などなど、本当にさまざまな説があり真実は謎です。

 

(4)ひょっとして信長は死期を予言してた!?

ここまで書いてふと思ったのですが、信長といえば幸若舞(こうわかまい)『敦盛』を好んで踊ったことが有名ですよね。

『敦盛』には「人間五十年、下天のうちを比べれば夢幻の如くなり。」(人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない)という一節がありますが、よく考えてみるとこれ、ちょっとゾッとします。

そう、なぜなら…

本能寺の変が起こったとき信長は49歳でしたが、この日は誕生日を迎えるわずか2日前だったそうです。つまり…

 

ほぼジャスト50歳でこの世を去っている!!!

 

信長はほぼ天下人となりましたが、それはつまり、人間の世の1日にしかあたらなかった、といえる……?

 

いや、50歳手前で光秀に殺されたということは、むしろその1日すら成し遂げられなかった=天下は取れなかった、とも考えられるのかもしれません。

そう考えると、これを好んでよく踊っていた信長は、ある意味では自分の人生の予言をしていたのかも!?なんて思ってしまいます。

 

京都めぐりでは、お得な「地下鉄・バス1日券」がおすすめ!

そんなミステリーうずまく本能寺をたずねるべく、まずは京都に向かいます。

京都といえば日本の観光地のなかでもトップクラスの土地ですよね。本能寺以外にもいろいろめぐりたい!という場合は、交通機関のフリーパスを買うとオトクです。

今回わたしが購入したのは、「地下鉄・バス一日券」でした。わたしが行ったときは、1日券と2日券があり、1日券は900円だったのですが、今年の10月に価格改定があったようです。2021年11月現在の情報をのせておきます。

 

地下鉄・バス一日券: 大人1,100円(小児550円)
公式サイト:京都市交通局|地下鉄・バス1日券

 

ちなみに、京都市交通局ではそのほかにも以下のようなフリーパスがあります。どこに観光にいくかで用途を変えるとお得度が変わりそうですね♪

 

各種フリーパス

  • 市バス・京都バス一日乗車券カード(京都市営バス・京都バスの均一運賃区間が1日乗り放題)
  • 市営地下鉄1dayフリーチケット(京都市営地下鉄全線が1日乗り放題)
  • 京都観光一日(二日)乗車券(京都市営バス・地下鉄全線と京都バスのほとんどの路線が一日または連続二日間乗り放題)
  • 京都嵐山・びわ湖大津1dayチケット(京都市営地下鉄全線と京阪電車大津線全線,嵐電全線が1日乗り放題)
  • 京都地下鉄・嵐電1dayチケット(京都市営地下鉄全線と嵐電全線が1日乗り放題) 

 

信長が眠る場所!京都「法華宗大本山 本能寺」と「信長公廟」

準備ができたらさっそく本能寺の変の舞台となった京都・本能寺にGO!

本能寺へのアクセス方法はいくつかありますが、わたしはJR京都駅からの方法で向かいました。

近くに商店街があり、そちらから入ると上記の写真の入口になります。裏手からも入れるようになっていて、最初そちらから入ってしまいました!

 

  • 公式サイト:法華宗大本山 本能寺
  • 参拝時間:午前6:00〜午後5:00
  • 参拝料金:無料
  • アクセス:JR京都駅から地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」乗換東西線へ、市バス「市役所前駅」下車

  

 

正面入口の隣には、「大本山本能寺」の石碑とともに、「織田信長公このような御廟所」の石碑も建っています。

 

入口を入ると、ほぼ正面にお堂があります。靴を脱いで上がれるようになっていたので、少し拝見しました。神社と違ってお寺は緊張しますが、入りやすい雰囲気でしたね。

お堂を正面にして右手側はお墓があるようで、檀家さんと思わしき方々がいらっしゃいました。それを見て、自分の家のお墓参りもいかないとなぁ…と反省した次第です。コロナとか体調とかもあって、今年は行けていない…ご先祖様すみません…!

 

奥に進むと「信長公廟」が見えてきます。この後方にいくと、信長さまのお墓です。

 

こちらが信長公のお墓です。なんともいえない感慨深さを感じながら合掌。

ちなみに正面からのショットも撮らせていただいたのですが、なぜか何度もピンボケするという事態に…。

歴史旅をしているとなぜだかこういうことが何度も起こるのですが、やはり廟所だからなのでしょうか? それとも単にワシのカメラテクがなさすぎるだけ!?

 

信長公のお墓の隣には、「本能寺ノ変戦没者合祀墓」がありました。

本能寺の変が起こったとき、本能寺と二条城では信長・信忠の近習などが多く討ち死にしたといわれています。信長の小姓・森蘭丸などはとくに有名ですよね!

こちらも歴史に想いを馳せつつ合掌、、

 

当時の場所もチェック!「本能寺跡」と「此付近本能寺址 石碑」

本能寺で信長のお墓を見てじーんとしたあとは、当時の本能寺があった場所をめぐっていきます。現在の本能寺の位置から歩いていけるので、観光がてらぶらぶらとお店なども見ながら歩くと楽しいです♪ ただし地図は必須で!(迷子になりそうになる)

「本能寺跡」と「此付近本能寺址 石碑」はすぐ近くにあるので、道なりにいけばすぐ見つかるかんじですね。

 

  • 本能寺跡:京都市中京区元本能寺南町
  • 此付近本能寺址:京都府京都市中京区山田町 油小路 通

 

 

 

戦国当時、本能寺は四条堀川のあたりに建っていたそうです。当時の本能寺はお城レベルの広大な寺域をもち、高い塀と深い堀で囲まれ要塞とも称されていたそうな。

信長は安全性が高く立派な本能寺がお気に入りだったようで、本能寺の変のときをふくめて計4回も本能寺に滞在したそうです。

ちなみに本能寺で一番偉いお坊さんだった日承上人は天皇の親戚で、信長は天皇に近づこうとしていたとも考えられるとのこと。

そのほかにも、本能寺は布教活動で種子島におおくの信者がいたため、信長は本能寺ルートで鉄砲や火薬を入手していたようです。こう考えると本能寺と信長には深いつながりがあるんですね。

 

こちらが「本能寺跡」です。現在の本能寺からはちょっと距離がありますね。

本能寺の変で全焼したあと、本能寺は再建されました。現在寺町にある本能寺は、のちに豊臣秀吉が移築したものです。その後は本能小学校が建てられ、現在では福祉施設となっているとのこと。

ここから少し歩くと…

 

「此付近本能寺址」にたどりつきます。この石碑はほんとうに町の一角にあるかんじで、とてもひっそりしています。

本能寺が寺町通御池に移築されたあと、本能寺の跡地には大名たちが邸宅が構えたそうです。そう考えると、さまざまな歴史が眠っている土地だといえますね。

 

信長も修理に関わった皇居「京都御所」

信長最期の地をめぐったあとは「京都御所」へと向かいました。京都御所は当時の天皇の住まいでもあり、現在残されているのは安政2年(1855)に造営されたものです。

紫宸殿、清涼殿、小御所、御学問所、御常御殿など、平安時代以降の建築様式の移りかわりを見られるとのこと。

 

  • 京都御所:京都府京都市上京区京都御苑3
  • アクセス:地下鉄烏丸線「今出川駅」から徒歩5分、市バス「烏丸今出川」から徒歩5分
  • 公開時間:4月~8月…9:00~16:20(最終退出 17:00まで)、9月及び3月…9:00~15:50(最終退出 16:30まで)、10月~2月…9:00~15:20(最終退出 16:00まで)
  • 入場料金:無料
  • 公式サイト:京都御所[施設案内]|宮内庁 皇居・京都御所・離宮参観

 

 

信長が活躍していたころ在位していたのは、第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)でした。

このころの朝廷は財政難に苦しんでおり、かなり懐がひっ迫していたそうです。そこで信長は、正親町天皇の嫡男・誠仁親王(さねひとしんのう)の元服費用を献上したり、内裏の修理に取りかかったりと尽力します。

内裏修復は信長が足利義昭を擁して上洛した永禄11年(1568)の翌年から始まり、その後10年以上も工事が続いたそうです。

 

わたしが京都御所に着いたときには時間が遅くなっており、公開時間が過ぎていました。そんなわけで建物内部が見られずじまい…うう~悔しいッ!

京都御所はまたリベンジしたいなあと思っていますが、せっかくなので敷地内を散歩しました。宮内庁の管轄とあってか、建物の出入口に厳重な警備があり、警察のパトカーも停まっていました。厳か…!!

散歩をしていると、京都御所のなかの休憩スペースでのんびり休んでいるかたがけっこういました。犬を散歩させたり散歩をしたりといった形で利用している方もたくさんいらっしゃるようですね。

遠景は山というロケーションも素晴らしいです。京都御所は明治天皇が東京に移るまでの約500年間も住まいとして使用され、何度も再建が行われたということです。歴史を感じますね!

 

じつは信長もこだわっていた?天下人の野望うずまく「大阪城」

京都を満喫したら、翌日は大阪めぐりです。歴史めぐりと考えると京都のほうが見どころが多いのですが、大阪には大阪の要チェックポイントがありますよね。

この京都・大阪1泊2伯の歴史旅では、じつは信長とは別の聖地巡礼もいっしょに行いました。時代がちょっとズレるので、そちらはまだ別の記事にまとめたいと思います。

そんなわけで、信長の聖地巡礼としての大阪は「大坂城」のみです。もっと時間があればこまごましたところを見たかったのですが、とりあえず大坂城は押さえておかねば…!ということで、じつは人生2度目の訪問です。

 

  • 大阪城:大阪市中央区大阪城1-1
  • 開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
  • 利用料金:600円(天守閣)
  • アクセス:大阪環状線 森ノ宮駅 or 大阪城公園駅 
  • 公式サイト:大阪城天守閣

 

 

大阪城といえば信長というより秀吉の印象が強いですよね。豊臣VS徳川の「大阪の陣」では大阪城が舞台になりましたし、秀吉の息子は最後まで大坂城に留まってこの世を去っています。

しかし、じつは信長も大阪城と関係があったんですね! わたしはこの事実を知らなかったので、初めて知ったときにはかなり驚きました。

 

そもそもこの地には、戦国時代末期から安土桃山時代初期にかけて「石山本願寺」がありました。ところが、天正8年(1580)の石山合戦の講和直後に火災にて焼失。

『信長公記』によれば、石山(大坂)の地は西日本を押さえるにも優れていたため、信長は高く評価していたそうです。そのため、石山本願寺の跡地にさらに大きな城を築く予定だったといいます。

 

結局この地は、織田信長の命令で丹羽長秀に預けられ、四国攻めのために津田信澄が布陣。本能寺の変後は池田恒興に与えられたものの、恒興が美濃に国替えとなったため秀吉が領有した…という流れになっています。

信長は大阪城そのものに関わったわけではありませんが、この地を高く評価し築城を計画していたことから、もし生きていれば大阪城を築城したり住まいとしていたりしたかもしれません。

そう考えると、この大阪城の建つ土地もまた、信長聖地のひとつといえるのではないかと思います。

 

天気も良いことだしと、大阪城の天守閣にものぼりました。だいたいのお城は内部に展示がありますが、大阪城もさまざまな展示が行われていました。

そうそう!大阪城といえば内部にエレベーターが設置されているんですよね。お城のなかって急傾斜の階段を上り下りするのが普通だと思うのですが、大阪城はそこが違う。エレベーターで一気にのぼれる!

以前行ったときは、この設備があまりにも現代っぽかったので、「エレベーターなんて風情がなくない!?」と思っていましたが、それから数年たって再度訪れた今回は、「ありがとう…!」と思いました。

やっぱね、歳をとると足腰に響くんですよね…いや、階段だってのぼれるよ!? でも帰りとかちょっと楽したくなったりするやん……?

そんなわけで大阪城は大人の味方です!!!

 

こちらはおまけです。
大阪市水道局のマンホールには、大阪城が描かれていました。素敵ですね♪

 

信長の足跡をたどってしんみり

信長の聖地巡礼ということで、名古屋、京都、大阪とめぐってきました。

本当は岐阜にも行きたくて、もともとはそちらを先に計画していたのですが、たまたま大阪に行く予定がかさなったので京都・大阪編を先にしました。岐阜もいつか行きたい!

聖地巡礼の旅はひとりでしんみりしっぽりやるのが好きなのですが、最近はなかなかそうもいかないので、けっこう厳選してスポットをまわっています。

それでも、やはり旅はいいなあと思います。もともとふらっといきなり旅するのが好きだったので、そこからすると今はあまりにも計画的だけれど、やはり知らない土地で歴史あるものを見ると気持ちがなごみますね♪

 

ほぼほぼ天下人になって49歳で亡くなった信長。49歳と考えると、自分にとってそう遠くない歳だよなあなんて感慨に耽る次第です…(笑)

現代と当時とでは社会もルールもなにもかもが違うけれど、じゃあ現代サイズにおきかえたとして、こんな信長レベルの決断とか生き方とかできるものかな?と考えると、やはり彼の偉大さがわかるような気がします。

そんなわけで、これまた長い歴史旅のエントリーになりましたが、最後までお付き合いくださった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました!

ではでは、また!

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